憲政の父・尾崎行雄の歩み(略年譜)
尾崎行雄(おざき・ゆきお)
1858年、相模国(神奈川県)津久井群又野村に生まれる。
1868年、明治維新。翌69年、父行正が新政府に仕官したのに伴い、母に連れられ上京。その後、父の転任により、71年に高崎県(群馬県)、翌72年に度会県山田(三重県伊勢市)に移住。
1874年、板垣退助、後藤象二郎らが「民選議院設立建白書」を提出。その年、尾崎は慶應義塾に入学するも、わずか一年半で退学。
1876年、当時の帝都四大新聞の一つ曙新聞に、尾崎の投書した「討薩論」が掲載され、大きな反響を呼ぶ。そして79年、福沢諭吉の推薦で、新潟新聞の主筆となる。
1882年、大隈重信を総裁とする「立憲改進党」の結成に、尾崎は犬養毅らと共に携わる。その頃から尾崎は雄弁家として名を馳せ、犬養と共に各地を遊説。
1887年、尾崎らは、後藤象二郎に呼びかけ、党派を超えて大同団結、後藤を代表とする「丁亥倶楽部」を結成し、藩閥政治反対運動を展開。その年の12月、尾崎は保安条例により東京退去を命じられ、翌88年1月に外遊(米国・英国)の途につく。89年2月、大日本帝国憲法発布、恩赦により東京退去命令が解かれた尾崎は12月に帰国。
1890年、第1回総選挙実施。尾崎は三重県から立候補し圧倒的多数で当選(以後25回連続当選は議会史上に残る記録)。92年、第2回総選挙が実施されるが、これが歴史に残る「選挙大干渉」となる。尾崎も中傷・妨害を受けたが、苦闘の末、なんとか当選。その後の議会でも、尾崎は軍閥・藩閥政治を攻撃する演説を積極的に行なう。
1898年6月、日本で初めての政党内閣が成立。大隈重信が首相に、板垣退助が内務大臣に、そして尾崎は文部大臣となった。しかし同年8月、「共和演説事件」が起こり、10月、尾崎は文部大臣を辞職。
1903年、尾崎は東京市長に就任。上水道拡張、下水道工事、道路改良、街路樹植栽、港湾整備、東京市街鉄道の買収、ガス会社の合併など、市の改善に積極的に努力、さらに多摩川水源林調査に着手し、市の水源林を買収確保する。
1909年、米国大統領タフト氏夫人が、日本の桜を米国の首府ワシントンのポトマック河畔に植えたいと希望していることを知り、尾崎は2000本の苗木をワシントンに送るが、苗木は、その後の検査で害虫が発見されすべて焼かれてしまう。残念に思った尾崎は、健全な苗を育てさせ、1912年、今度は3000本を送る。苗木は無事育ち、現在も見事な美しさでポトマック河畔の春を彩っている。
1912年、尾崎は東京市長を辞任。犬養と共に憲政擁護運動を起こす。この頃から尾崎と犬養は「憲政二柱の神」と呼ばれる。1913年2月、尾崎は、後に桂首相を死に至らしめたといわれる桂内閣弾劾演説を行なう。また翌14年には、シーメンス事件(日本海軍高官の収賄事件)で山本内閣弾劾演説を行ない辞職に追い込み、その後成立した大隈内閣で司法大臣に就任。
1919年、第1次世界大戦後のヨーロッパを視察。帰国後、「戦争は勝っても負けても悲惨な状況をもたらす」として平和主義・国際主義による世界改造の必要を説く。翌20年には、普通選挙運動の先頭に立つ。21年には軍備制限論を掲げ、軍縮を説き全国を遊説。また24年の第二次護憲運動でも先頭に立つ。
1931年、カーネギー財団に招かれ米国に滞在している時、満州事変勃発の報を聞いた尾崎は、「日本は間違っている」と主張。「国賊・尾崎を殺せ!」という圧力が日に日に強まるも主張を曲げることなく、37年には、議会で辞世の句を懐に決死の軍部批判を行なう。42年、翼賛選挙に反対し東条首相に公開質問状を送り、また同年、選挙中の応援演説がもとで不敬罪で起訴され巣鴨拘置所に入れられる(44年、大審院で無罪判決)。
1945年8月15日、終戦。尾崎は同年12月、全世界の協調と世界平和の実現を願い、「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出。
1952年、衆議院より憲政功労者として表彰される。同年病床より立候補し当選(第1回より連続25回当選)。翌53年4月、第26回総選挙において初めて落選。7月に衆議院名誉議員、10月に東京都名誉都民(第1号)となる。「憲政の父」「議会政治の父」と仰がれつつ、翌54年10月、逗子の風雲閣にて永眠(享年95歳)。